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2017年3月11日土曜日

6年目のわたしの3.11〜夜空を見て涙がこぼれないように〜下溝から淵野辺までの徒歩

あの日、職場でテレビを観て同僚が驚きの声をあげ続けていた。
だが、それは悲劇の序章でしかなかった。

「水蒸気爆発」する福島第一。
じつはあの時既にメルトダウンしていたらしい。
飛散する放射性物質の恐怖。
相模原もその後、基準値を上回る値を検出し続けた。

そうとも露も知らず、わたしは仕事場で来ていたお客さんを避難させて、小田急が止まっていたのでバスで家路についた。

それが後日、わたしへの非難となって降りかかる。外に避難させて良かったのか、寝泊まりすべきじゃなかったのか、と。

そして、家路について。原当麻行きのバスがあったのでゆられること2時間。原当麻の三和で一息つき、マクドで腹ごしらえする。よく停電していなかったものだ。そこに行き着くまでの歩き1時間。相模川を渡る橋を渡り、原当麻に向かうと辺りは真っ暗だった。じつは停電していた。星明かりしかない。

同じ星を眺めながら、親族友人を亡くしてぼう然としていた人も数限りなくいたに違いない。足許を気をつけながら、工事中だった圏央道接続道路の歩道を歩き、同じく携帯を頼りに道を探し歩く人たちと少なからずすれ違った。わたしもその一人だった。

北里方面の便はなかった。歩いてハケ下から上へ行くしかない。北里の北側を通って歩き通した。自動販売機まで停電になってないところで休みながら。

和泉短大付近でバスを見かけたが逃してしまう。博物館と宇宙科学研究所のそばを通り、16号を超してようやく淵野辺到着。置いてあった自転車で帰宅した。家人はなぜか、多くを語ってくれなかった。わたしを玄関で見るなり、足はついているよね、といっていた。お湯を張っていた湯船から脱衣場に、お湯があふれていたらしい。飼い犬も吠えていたことだろう。(震災後、被災地でなくなった親族らの姿を見かけた、という人たちもいたという。)

ざっといえばこのような形だった。しかし、その翌週から小田急が動くまで、片道三時間をかけて自転車で職場まで行っていた。その時の後遺症か、未だに寒くなると膝下が痛む。冷えもひどい。小田急も座間〜相武台前間で路盤に亀裂が入っていたのでその復旧だったらしい。

その後、落ち着いてからモナの丘が自転車通勤経路の近くにあることをしる。自転車を暗闇の中こぎながら、頭の中をループしていた曲がある。以前繰り返し聞いたマーラーの交響曲第2番の各楽章のフレーズだった。特に、終楽章の合唱が入るところから。

その近辺の日付で見聞きしたニュースだと、新宿から夜明けまで帰宅で歩き通した人たちも少なからずいたという。そこから「帰宅困難者」の保護が防災訓練に入ってくる。

Sukiyakiもとい「上を向いて歩こう」が時々流れるのが、近所の三和の入っているSCだったりする。そのSCも3.11で開店時期が遅れた。〜涙がこぼれないように〜これはわたしたちが先の戦争を忘れてはならないのと同じく、重みを持つことではなかったのか。