橋本駅手前の最後の右カーブ
(ウィキペディアから)
新宿から橋本に向かう乗客には、なぜ相模原線(さがみはらせん)という名前なのか、という思いもあるでしょう。調布から橋本まで相模原線という名前です。
わたしの憶えている限りで話してみます。新宿から南大沢まで開通して、おお!という感じでした。学生時代でした。京王堀之内の丘の上にあるモスバーガー(いつの話だろう)に入って大学の仲間と議論するのが楽しみでした。それぐらいしか周囲は開けていなかったというわけです。
麻溝台に住んでいた後輩が、橋本から大学までの京王バスは不便だからといって、授業のある日は彼はスクーターに乗って補給廠脇をとおって来てました。たぶんこれが、わたしと相模原の最初の関わりだったようです。当時、相模線はまだ非電化区間でした。
その後、やっと橋本まで開通だったのです。恩師の退官講演とパーティーのとき、多摩センターから大学まではじめて多摩都市モノレールに乗り、地域がだいぶ変わったのを感じました。いまでは巨大ショッピングセンター、アリオ橋本を目指して海老名あたりまでの半径の人たちが押し寄せています。
京王相模原線に戻ります。橋本から津久井の中心地まで延伸構想もあったそうです。橋本のホーム突端にはマンションが建ち、断念したのだなとわかります。地図上をたどると旧国鉄工機部(橋本車両センター)跡が延長線上にあるのがわかります。
(参照 http://web.thn.jp/wgwg_haitetsu/haitetsu/keio_sagami/keio01.htm)いまは東急ストアや郵便局、高層ビル群が建っています。橋本から西は神奈中バスが緑区三ヶ木(みかげ)までは直通で運行されています。
現時点で市内始発の新宿ゆき路線はここだけということになります。小田急多摩線が唐木田から上溝まで延伸すれば、都心直通は二本になります。国内の消費が減り続けるならたぶん、都心にこだわる必要すらなくなりそうですが、どうなるんでしょう。
現代の「絹の道」圏央道のイメージ。 砂利道、横浜線、16号、 自動車専用道路と進化するのがわかります。 |
横浜線の市内沿線でもだいぶ住戸の開発が進んでいます。内陸でどのぐらい産業を集積できるかで、相模原の特色は決まってきそうです。
政令市移行を契機に相模原市の職員たちが新宿駅で市の紹介イベントを繰り広げていたのも記憶に新しいところです。
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